4回目となった高校時代の振り返り。
やっぱり濃かったんだなぁ、終わりそうにない😂
ここでも書き切れないエピソードは山ほどたくさんあります。
勉強と寮生活だけの高校生活だったけど、そのどちらも濃すぎたって事ですね。
さて、前回の続きで3年生になってからのお話です。
3年生になると、寮でも最上級生となるので、先輩に気を使ったりすることもなくなり、同じ部屋のメンバーにも恵まれて楽しく勉強を続けていました。
受験生としては標準だったのかもしれませんが、本当に勉強漬けでしたね📝
通常の授業以外に朝の補修、夜のナイター補習、週末の模試、夏休みの勉強合宿と、暇はほとんどありませんでした。
模試なんて確か10月、11月は毎週末あったんじゃなかったっけ?
ごくたまにですが息抜きでカラオケにいって叫びまくったりもしましたが🎤💦
この勉強漬けの生活の中でも、面白い、楽しい、わかりやすいと感じたものがありました。
まず、予備校のサテライト授業です。
今ではネット授業は当たり前なのでしょうが、当時はサテライト授業が始まった頃でした。
地方ではそもそも予備校が少なく、大手予備校の有名講師(古くは金ピカ先生、ヤクザ先生、マドンナ先生とか)の存在は知っていても授業を受ける機会はなかったので、とても新鮮でしたね。
自分の高校では英語のみサテライトがありました。
東進の富田一彦先生の授業でした。
今現在は個人の予備校を経営されているようですね。
何というか授業内容がものすごく理論的、体系的でわかりやすかったですね。
この先生のテクニックというか解法はとても自分に合っていて、ずっと使い続けました。
はっきり言って、高校の先生は熱意はあるけど、じーちゃんでテクニックはレベル低かったですね・・・
元々英語は得意でしたが、富田先生にさらに伸ばしてもらったと思います。
たまに「日本で英会話学校が流行るのは習ってもできない人が多いからだ」なんてチクリとくる本音も言ったりして楽しい先生でした。
あと、休日に本屋で参考書を見るのも好きでした。
寮にたくさん人がいるので、色んな参考書が転がっていましたが、どんな参考書も個性があり、自分に合うものを探すのが宝探しのような感じでたのしかったです。
理系なのに物理が苦手な私(そもそも男なら理系だろというアホな理由で選択)には、「橋元流解法の大原則」だったけな?京大卒の先生の参考書でしたが、わかりやすく、面白かったですね。
ネットで調べたら、もう70歳くらいですが、まだ東進で教鞭を執られているようで。
お元気そうでなによりです。
とまあ、猛勉強の中で勉強的な息抜きをしていました。
深夜や朝早くも勉強していたのでラジオにも随分お世話になりました。
その地域ではFMが2局(民放とNHK)しかなかったので、民放を聞いていましたが、当時好きだったのは、夜はジェットストリーム、あと10分くらいで1話完結型の怖い話をするテールオブテラーとかいう番組も好きでしたね。
休日はカウントダウンやドリカム、田島孝男の番組が好きでしたね。
ラジオって耳だけで聞く分、凄い想像が膨らむというか。ジェットストリームは将来こんな感じで世界を旅行したいなんて気持ちになりました。
さて、かなり脱線しましたが、私の成績は3年生になると特に大きな変動はなかったのですが、希望大学のレベルからするとかなり厳しい状況でした。
それを如実に突きつけられたのが○大模試、いわゆる特定の大学模試です。
英語はそこそこでしたが、肝心の数学、物理はボロボロの状態。
難関大学の2次試験ってこんな難しいんだって痛感しましたね😭
結果はほとんどC判定だったと思います。
数学の先生からは「無理だから志望校のレベルを落とした方がいい」とも言われました。
ところが、担任のM先生からは「やれるだけやってみろ」との暖かいお言葉。
実力不足、かつそれを認めたくないガキんちょ受験生だった私は、めげずに頑張りました。
これを神様が見てくれていたのか、奇跡が起こります。
センター試験で想定外の高得点を叩き出したのです。
5教科で約700点をゲットしました。
いつもは模試の平均630点くらいだったので、驚異的とも言えます😅
しかも自分の志望校は難易度が高い割にセンターの比率が高かったので、M先生からも受験のお許しが出ました。
こうして、滑り止めとなる私立3校も含めて、東京に友達と2人で受験に行くことが決定しました。
生まれて初めて親と別で県外に行くのです。
当時は緊張と期待が凄かったでしょうね。
ありゃりゃ、長くなりました。やっぱり終わらなかった😅
こうなったら、書きたいだけ書き残すことにします❗
では、おやすみなさい😪